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鵜祭

12月16日

十二月十六日未明の神事である。これより前、遠く七尾市の鵜浦町で生け捕った一羽の鵜を、同地の鵜捕部三人が鵜籠に入れ、二泊三日の道中をして十四日の夕方ごろ神社に到着し、鵜は餌止めとなる。鵜は生け捕られた瞬間から神となり、鵜様と呼ばれ、道中では民衆が「鵜様を拝まずに新年は迎えられん」と手を合わす。 十六日午前三時すぎ神社で祭典があり、祝詞奉上、撤饌がすむと、本殿内の灯火だけを残して消灯し、四辺は暗黒となる。 鵜捕部が鵜籠を本殿前方に運び、神職との間に問答がかわされる。やがて、「鵜籠を静かにおろし、籠をとりすて、鵜をその所に放てと宣い給う」とおごそかにいわれると、鵜捕部は鵜籠の鵜を本殿に向かって放つ。鵜は本殿の灯火をしたって昇り、殿内の台にとまると取り押さえられ、海浜に運ばれて放たれる。鵜は闇空に飛びたち、行くえも知れず消え失せるのである。 鵜祭の由来は明らかでない。神社の所伝によれば、祭神の大国主神が神代の昔、初めて七尾市鵜浦町の鹿渡島に来着したとき、同地の御門主比古神が鵜を捕らえて捧げた故事によるとか、あるいは同地の櫛八玉神が鵜に化して海中の魚を捕って献上した故事にもとづくと説かれている。神秘的な行事ではあるが、気多大社の年中祭祀上から大観すると、新嘗祭(十一月二十三日)中の神事だったのである。平国祭から例大祭(四月三日)に連なる行事が、祈年祭(二月十七日)の性格を有するのと対比して考えるべきであろう。 なお当夜、鵜の神前への進み具合によって年の吉凶を占う習俗があった。加賀藩祖の前田利家は、鵜祭の行事を重んじ、天正十三年(一五八五)に鵜捕部へ鵜田二反を寄進しているほどであるが、鵜祭の鵜が例年にまさって神前によく進んだことを聞き、「国家之吉事、不可過之候」(能登国にとり、これ以上縁起のよいことはない)と喜んだ書状が大社にある。 この神事を脚色した能「鵜祭」があるが、加賀藩祖前田利家がひいきにしていた金春流でもっぱら演じられたことは注目すべきである。