History
いしかわ百万石物語
前田利家とまつが祈願した
能登一の宮
天平十三年(七四一年)能登国が越中国の一部であった時代、越中国の一宮は現在の気多大社であった。気多大社が中央の文献に初めて見えるのは『万葉集』である。天平二十年(七四八)、越中守大伴家持が出挙のため能登を巡行したとき、まず本社に参詣して、「之乎路から直超え来れば羽咋の海朝凪ぎしたり船楫もがも」(志雄街道をまっすぐに越えて来ると、羽咋の海は朝なぎしている。舟と櫓が欲しいものよ)と詠んだ。本社がいかに重んじられ、のちに能登の一の宮となる神威を当時すでに有していたことがわかる。
北陸の一角にありながら朝廷の尊崇が厚く、神階も累進して貞観元年(八五九)には正二位勲一等から従一位にのぼっている。このような国家の厚遇は、東北経営、あるいは新羅や渤海を中心とした対外関係とも無縁ではあるまい。能登半島の要衝に鎮座する気多大社の神威が中央国家に及んでいたのである。近年、南方八〇〇メートルの地に発見された寺家遺跡は縄文前期から中世にわたり、大規模な祭祀関係の出土品や遺構類は気多大社とのかかわりあいをしのばせる有力な資料となっている。
延喜の制では名神大社に列して祈年の国幣にあずかった。「神名帳」によれば、気多神社と称するものが但島、能登、越中、越後(居多神社と称する)にあるほか、加賀には気多御子神社があり、国史見在社として越前に気多神社がある。日本海沿岸にひろく気多の神が祭られていたことを知ることができ、古代における気多大社の神威がしのばれる。
能登の守護畠山氏の社領の寄進、社殿の造営などが見られる。今も遺る摂社若宮神社(国指定重要文化財)は畠山氏の再建で、石川県の中世建造物として重視される。
近世は、前田利家をはじめ歴代の藩主が崇敬し、社領三百五十石を寄進したほか、祈願、祈祷はもとよりしばしば社殿の造営をした。本殿(大己貴命)、拝殿、神門、摂社若宮神社(事代主命)、摂社白山神社(以上国指定重要文化財)、神庫、随身門(ともに県指定文化財)がそれである。
加賀藩の保護した社叢(国の天然記念物)には奥宮が鎮座し、「入らずの森」と呼ばれる聖域となっている。昭和五十八年五月二十二日、全国植樹祭に御来県の昭和天皇が本社に行幸され、入らずの森に踏み入られ「斧入らぬ みやしろの森 めずらかに からたちばなの 生ふるを見たり」と御製を詠まれました。昭和天皇は、決してみだりに採取などなさらず、それぞれの植物が平穏に存続をつづけ、その場所の植物相がいつまでも変わらないようにとお祈りになっておられるからである。「斧入らぬみやしろの森」は、そのおよろこびなのである。明治四年(一八七一)に国幣中社、大正四年(一九一五)には国幣大社となり、現在も北陸道屈指の大社として知られる。
一年を通じ、様々な年中行事があり、様々な祭典が執り行われています。
石川県七尾市の所口にある気多本宮へ渡御する大規模な神幸祭で、現在は三月十八日から二十三日まで、羽咋・ 鹿島郡内の二市五町を回る。神輿の長い行列が早春の能登路を巡行し、一般には「おいで祭」と呼ばれる。沿道には人々が集まり、神幸を迎える。「寒さも気多のおいでまで」といわれ、神が民衆の中においでになり一体となる能登の春祭として親しまれている。
十二月十六日未明の神事である。これより前、遠く七尾市の鵜浦町で生け捕った一羽の鵜を、同地の鵜捕部三人 が鵜籠に入れ、二泊三日の道中をして十四日の夕方ごろ神社に到着し、鵜は餌止めとなる。鵜は生け捕られた瞬間から神となり、鵜様と呼ばれ、道中では民衆が 「鵜様を拝まずに新年は迎えられん」と手を合わす。
一月 |
元旦祭(一日) 門出式(十一日) 奥津島社例祭(十一日) |
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二月 |
月次祭(一日) ついたち結び(一日) 紀元祭(十一日) 祈年祭(十七日) 若宮社例祭(二十日) 菅原社例祭(二十五日) |
三月 |
月次祭(一日) ついたち結び(一日) 楊田社例祭(三日) 平国祭おいでまつり(十七〜二十三日) |
四月 |
月次祭(一日) ついたち結び(一日) 例大祭(三日) 鎮花祭(四日) 太玉社例祭(四日) |
五月 |
月次祭(一日) 御贄祭(一日) ついたち結び(一日) 白山社例祭(一日) 若宮社月次祭(一日) |
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六月 |
月次祭(一日) ついたち結び(一日) 大祓式(三十日) |
七月 |
月次祭(一日) ついたち結び(一日) |
八月 |
月次祭(一日) 心むすび大祭(十三・十四日) |
九月 |
月次祭(一日) 御贄祭(一日) ついたち結び(一日) 白山社例祭(一日) 若宮社月次祭(一日) |
十月 |
月次祭(一日) ついたち結び(一日) 神宮祭(十七日) 若宮社例祭(二十日) |
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十一月 |
月次祭(一日) ついたち結び(一日) 七五三参り(一〜三十日) 新嘗祭(二十三日) 印鑰社例祭(三十日) |
十二月 |
月次祭(一日) ついたち結び(一日) 鵜祭(十六日) 清殿祭(二十日) (二十九・三十・三十一日) 大祓式(三十一日) 奥宮例祭(三十一日) 大多毘社例祭(三十一日) 除夜祭(三十一日) |
重要文化財 昭和36年6月7日指定
気多神社拝殿は、桁行3間、梁行3間で、屋根は入母屋造り、桧皮葺、妻入りである。4面に切目縁を巡らしているが、高欄は付いていない。縁へは正面と両脇側から石段で昇る。軸部は、粽のある円柱に頭貫・台輪をのせ、柱上・柱間ともに阿麻組の組物で軒先を支えている。柱間には長押を付けず、正面と背面中央には藁座を付けて桟唐戸を建て込み、その他の間には舞良戸が入れてあるが、唐様を主調とした建造物である。
建立年代は、小屋梁の墨書によって、承応2年(1653)から同3年(1654)にかけて建立されたことが知られる。建仁寺流の加賀藩御大工山上善右衛門嘉広の作と伝えるが「山上家由緒書」に小松天満宮や那谷寺とともに気多神社の拝殿を建てたと記しているのみで、確証は得られない。しかし、妻の破風部分を強調していることや、細部が那谷寺護摩堂ときわめてにていることなど、善右衛門の作と感じさせる点が多い。
昭和60年「石川県の文化財」より
重要文化財 昭和57年6月11日指定
気多神社本殿は、桁行3間、梁行4間の両流造りで、正面に1間の向拝を付け、4周に高欄付きの縁を巡らしている。両流造りは、この本殿や、厳島神社にしか見られず、類例が乏しい。平面にもきわめて重要な特色があり、外陣・中陣・内陣の3室に分け、内陣は奥の2間とし、その前方1間を囲って神座とし、後方の1間を御納戸と称する特異な形態をとって、神仏習合の影響を濃厚に伝えている。建立年代は、棟札によって天明7年(1787)であることが知られ、大工は清水次左衛門峯充である。細部の様式は古風であり、かえる股なども天明期とは思われものである。妻には彫刻を多用しているが、装飾過多には陥ってない。
昭和60年「石川県の文化財」より
重要文化財 昭和36年6月7日指定
この神門は、四脚門という形式で、2本の円柱の本柱を、それぞれ唐居敷という厚い板の上に立て、その前後に4本の大面取り角柱が控柱(袖柱)として立つ。切妻造り、平入り、檜皮葺の屋根は、反り増し付きの軒桁、化粧棟木、化粧たるきなどで軒先は真反となって快い曲線を見せている。木割も太く、袖柱の面も大きく、柱頭は頭貫でつなぎ、拳鼻をつけ、柱上は三斗組の組物を置き、中備も三斗組として桁を受ける。妻は虹梁の上に板かえる股、大斗実肘木で棟を受ける。
建立年代は、社伝に天正12年(1584)としているが、細部や全体のおおらかさからみて建立の年代の下限としてよい。江戸初期には少なくなる真反り、反り増し、板かえる股の曲線など、伝統の本格的技術を忠実に駆使して建てられている建物である。社蔵の由緒書によると、延宝8年(1680)に本殿以下の諸殿とともに修理をうけている。
昭和60年「石川県の文化財」より
重要文化財 昭和57年6月11日指定
摂社白山神社本殿は、気多神社本殿と同年の棟札があり、同時に同じ大工によって造られている。3間社流造り、檜皮葺で、本社本殿の右側に並んで建っているが、内陣の形式は本殿に準じており、本殿に合わせて規模意匠を整えていることがわかる。
昭和60年「石川県の文化財」より
重要文化財 昭和25年8月29日指定
気多神社の拝殿の奥には、中央の大型の本殿に並んで、その左脇に摂社若宮神社本殿、右脇に白山神社本殿があり、3棟の本殿が立ち並んでいる。若宮神社本殿は、事代主命を祀り、永禄12年(1569)に能登守護畠山義綱により再建されたもので、小屋束に墨書銘があり、石川県下で数少ない戦国時代の建築の1つである。 1間社流造り、檜皮葺で、全体に繊細な感じのする建築であるが、かえる股や手挟みの彫刻にはこの時代独特の若葉が見られ、妻の大瓶束の雲形模様がすぐれている。向拝の木鼻や頭貫木鼻もすぐれている。向拝は、大面取り角柱に連三斗、手挟で身舎は円柱に連三斗で桁を受けている。軒先は二軒繁たるきで、向拝だけを一軒にしているのは簡潔である。4周に高欄付の切目縁をめぐらし、亀腹(土壇の周囲を土台下から地盤面まで丸く仕上げたもの)の上に立つ。縁束は柱の間隔で立ち、中間を省略しているのも向拝の軒先と同じ感覚であろう。大きな本殿の脇に小さく建っている姿は、いかにも室町的な感じである。
昭和60年「石川県の文化財」より
国の天然記念物 昭和42年5月2日指定
気多神社の社叢は、神域「入らずの森」として神聖視され、神官も、年1回、社叢内の奥宮の神事を勤めるために目かくしをして通行するのみといわれる。照葉樹林(暖地性常緑広葉樹林)としては、ことに中心部において極めて良く原生相が維持されており、常緑樹の枯死倒壊と交替したエノキの下に、ヤブニッケイ・タブノキなどの陰樹が生長しつつあるという遷移相も典型的に認められる。中心部は、スダジイの極盛相を示しているが、周辺は次第にタブ林に移り、ヤブツバキ・ヒサカキ・ヤブニッケイを亜高木とし、下層の林床にカラタチバナ・オオバジャノヒゲ・ムラサキニガナ・オモト・ホクリクムヨウラン・ベニシダなどをもっている。つる植物にテイカカズラ・ムベ・フジ・キズタ・イタビカズラ・ツルマサキ、着生植物にマメヅタなど、暖地性のものが多くみられる。カスミザクラ・アワブキ・イヌシデの混生は実生とみられるが、スギ・サカキは、植栽でなければ2次的野生と認められる。
昭和60年「石川県の文化財」より