Blackmagic Pocket Cinema Camera 6Kで能登一の宮氣多大社をタイムラプス撮影しました。レンズは、14mm F1.8 DG HSM | Art EF16-35mm F2.8L III USMを使用しました。DaVinci Resolve 16で編集しました。 天平十三年(七四一年)能登国が越中国の一部であった時代、越中国の一宮は現在の気多大社であった。気多大社が中央の文献に初めて見えるのは『万葉集』である。 北陸の一角にありながら朝廷の尊崇が厚く、神階も累進して貞観元年(八五九)には正二位勲一等から従一位にのぼっている。このような国家の厚遇は、東北経営、あるいは新羅や渤海を中心とした対外関係とも無縁ではあるまい。能登半島の要衝に鎮座する気多大社の神威が中央国家に及んでいたのである。延喜の制では名神大社に列して祈年の国幣にあずかった。「神名帳」によれば、気多神社と称するものが但島、能登、越中、越後(居多神社と称する)にあるほか、加賀には気多御子神社があり、国史見在社として越前に気多神社がある。日本海沿岸にひろく気多の神が祭られていたことを知ることができ、古代における気多大社の神威がしのばれる。 近世は、前田利家をはじめ歴代の藩主が崇敬し、祈願、祈祷はもとよりしばしば社殿の造営をした。 昭和天皇が本社に行幸され、入らずの森に踏み入られ「斧入らぬ みやしろの森 めずらかに からたちばなの 生ふるを見たり」と御製を詠まれました。
2020.07/23重要なお知らせ