History
気多大社には大己貴命・菊理媛神二柱の縁結びの神をはじめ
◯柱の神様がお祀りされています。
心優しい神様と言われた大己貴命は、国土の支配者であり、少彦名命と共に国造りの大事業を手掛けました。また神話の中では、痛みに苦しむ白兎に適切な治療をしたことから医学・薬学に精通していたと言われております。そして大己貴命は、ハンサムで優しく、絶世の美女と呼ばれる姫神様にも選ばれた逸話もあります。また6柱の姫神様と結婚され、181柱もの子供がいたということから縁結び・子宝の神様とも言われております。
入らずの森の中に2柱の夫婦神様をお祀りしております。
2柱が鎮座していることから2柱で縁結びや夫婦円満のご利益があると言われております。
奥宮
神話の中で英雄のような神様。伊弉諾尊と伊弉冉尊の子で、天照大御神の弟。多くの乱暴を行ったため、天照大御神が怒って天の岩屋にこもり、高天原から追放されますが、出雲に降り、八岐大蛇を退治し、奇稲田姫を救います。大蛇の尾から得た天叢雲剣(草薙剣)を天照大御神に献じ、最終的には根の国の王になるなど破天荒な性格を持つ反面、英雄の神、武の神としても崇められています。 奇稲田姫との間に八嶋(やしま)士(じ)奴(ぬ)美(みの)神(かみ)を産んでおり、その子孫に当社のご祭神である大国主神がいます。
奥宮
足名椎・手名椎 の娘で、八岐大蛇に生け贄として捧げられるはずのところを後に結婚する須佐之男命により助けられる姫神様。 古事記では、櫛に身を変えられ守られたという記述に合わせて、クシにこの「櫛」の漢字があてられています。神名の櫛・奇は「霊妙な」という意味で、名田は稲田の省略形です。 このことから櫛名田比賣命は、霊妙な働きを持って稲作に豊穣をもたらす力、もしくは豊かに実る稲田自体を神格化した女神と考えられています。
若宮神社
国譲りを要求する高天原からの使者(武御雷神)に対し、父の大国主神にかわって国譲りの誓約をしたことから神の信託をのべる役割をもつ神様とされています。事代主命がのんびりと「船釣りを楽しんでいた」ことから、民間信仰から発生した海の神・豊漁の神・漂流神の七福神の「えびす様」と習合したと言われており、商売繁盛の神様としても崇められてります。
白山神社
菊理姫神はケガレを祓う神格を持ちます。また伊弉諾尊および伊弉冉尊と深い関係を持ちます。口論になってしまった伊弉諾尊と伊弉冉尊の男女の仲を取り持ったことから縁結びの神様と言われております。(「ククリ」は「括り」の意)古事記、日本書紀の本文には登場せず、日本書紀の一書(第十)に一度だけ出てくるのみで、伊弉冉尊の荒魂もしくは和魂、あるいは伊弉冉尊の別名という説もあります。また、死者(伊弉冉尊)と生者(伊弉諾尊)の間を取り持ったことからシャーマン(巫女)の姫神様ではないかとも言われています。
楊田神社
火の危険性を伝えた神話に登場。 火は私たちにとって効用と災厄の二面性を持ちます。 軻遇突智命は伊弉諾尊と伊弉冉尊の最後の子で、火の神であったために火之迦具土を産んだ伊弉冉尊は焼かれて死んでしまう。それに嘆き悲しんだ伊弉諾尊は十握剣で火之迦具土命を殺します。ただ殺された軻遇突智命の血から剣や水の神、死体から山の神など様々な神様が誕生しました。この神話から火の扱いの危険性が伝わるとともに私たちの暮らしに欠かせない存在であります。
太玉神社
“神道の神事に欠かせない神様”。岩戸隠れ神話で、太(ふと)玉(たまの)命(みこと)は思兼神が考えた天照大御神を岩戸から出すための策が良いかどうかを占うため、天児屋根命と共に太占(ふとまに)(占い)を行いました。そして様々な職業の神様をまとめ祭祀も執り行ったことから占い・祭祀の神そして産業の総合的な神様と言われております。 そして諸国の忌部が作る祭具を使用して朝廷の祭りを行う忌部氏の祖先神でもあります。
菅原神社
学問の神様であり、平安の天才。 平安時代の貴族で、道真公は、幼少の頃より学問の才能を発揮され、わずか5歳で和歌、11歳で漢詩を詠まれるなど、神童と称されていました。日夜学問に励まれ、学者として政治家としても活躍されます。二十六歳の若さで最難関の試験(方略試)に合格され、三十三歳で当時の最高位の文章博士に任命されます。そして一時は右大臣まで昇りつめます。菅原道真公は優れた書道家でもあったと言われており、書の三聖の一人と称せられ「書道の神様」としても信仰されています。
奥津島神社
天照大御神と素戔嗚尊の誓約で生まれた女神で、スサノオの剣から化成した三柱の女神の1柱です。元々、玄界灘の海上交通を守護する女神でしたが、弁財天と同一視されることもあり、財宝の神ともいわれております。
福の神の代表で、微笑ましいお顔が印象的で人々を幸せにします。 五穀豊穣の農業の神で、食物・財福を司ります。袋を背負い、打ち出の小槌を持って米俵に乗った姿です。インドのマハーカーラー神に起源を持ちますが日本では大国主神と集合しました。
氣多大社は、 氣多大神宮、氣太神宮、氣多大神、一宮大神、能登大神の別称があり、 越前国気比神宮、常陸国鹿島神宮、下総国香取神宮と共に『日本四社』と称せられていました。
文献に初めて見えるのは、『万葉集』です。
748年に越中守大伴家持が氣太の神宮に赴き参詣した折に、近隣の海辺にて歌を一首つくりました。古来より能登は、渤海を中心とする大陸と交流関係があり、都から東北方面の経営において極めて重要な地域でした。そのため能登半島の要衝に鎮座する気多の大神は、防備を護る要として、朝廷から厚く尊崇されていました。
768年に封戸二十戸と田二町を寄進され、しばしば奉幣を受け、また、784年に従三位から正三位、834年に正三位勲一等、859年には従一位勲一等、896年には正一位の神階を賜り、今日に至っています。
気多大社は、16世紀に能登の守護畠山氏が正親町天皇の勅許を得て現在の地で社殿の造営を進め、記録によれば1569年当社に現存する若宮神社も再建しました。この建物は、石川県内でも重要な中世建造物でもあります。 その後、上杉氏、織田氏、前田氏など能登國の支配者たちからも手厚い保護を受け、崇敬は絶えることなく、しばしば社領の寄進もなされました。特に、加賀藩主前田氏の崇敬は厚く、ご夫婦で何度も祈願を受けられ、また社領350石の寄進をはじめ、社殿の造営も賜りました。
重要文化財 昭和36年6月7日指定
気多神社拝殿は、桁行3間、梁行3間で、屋根は入母屋造り、桧皮葺、妻入りである。4面に切目縁を巡らしているが、高欄は付いていない。縁へは正面と両脇側から石段で昇る。軸部は、粽のある円柱に頭貫・台輪をのせ、柱上・柱間ともに阿麻組の組物で軒先を支えている。柱間には長押を付けず、正面と背面中央には藁座を付けて桟唐戸を建て込み、その他の間には舞良戸が入れてあるが、唐様を主調とした建造物である。
建立年代は、小屋梁の墨書によって、承応2年(1653)から同3年(1654)にかけて建立されたことが知られる。建仁寺流の加賀藩御大工山上善右衛門嘉広の作と伝えるが「山上家由緒書」に小松天満宮や那谷寺とともに気多神社の拝殿を建てたと記しているのみで、確証は得られない。しかし、妻の破風部分を強調していることや、細部が那谷寺護摩堂ときわめてにていることなど、善右衛門の作と感じさせる点が多い。
昭和60年「石川県の文化財」より
重要文化財 昭和57年6月11日指定
気多神社本殿は、桁行3間、梁行4間の両流造りで、正面に1間の向拝を付け、4周に高欄付きの縁を巡らしている。両流造りは、この本殿や、厳島神社にしか見られず、類例が乏しい。平面にもきわめて重要な特色があり、外陣・中陣・内陣の3室に分け、内陣は奥の2間とし、その前方1間を囲って神座とし、後方の1間を御納戸と称する特異な形態をとって、神仏習合の影響を濃厚に伝えている。建立年代は、棟札によって天明7年(1787)であることが知られ、大工は清水次左衛門峯充である。細部の様式は古風であり、かえる股なども天明期とは思われものである。妻には彫刻を多用しているが、装飾過多には陥ってない。
昭和60年「石川県の文化財」より
重要文化財 昭和36年6月7日指定
この神門は、四脚門という形式で、2本の円柱の本柱を、それぞれ唐居敷という厚い板の上に立て、その前後に4本の大面取り角柱が控柱(袖柱)として立つ。切妻造り、平入り、檜皮葺の屋根は、反り増し付きの軒桁、化粧棟木、化粧たるきなどで軒先は真反となって快い曲線を見せている。木割も太く、袖柱の面も大きく、柱頭は頭貫でつなぎ、拳鼻をつけ、柱上は三斗組の組物を置き、中備も三斗組として桁を受ける。妻は虹梁の上に板かえる股、大斗実肘木で棟を受ける。
建立年代は、社伝に天正12年(1584)としているが、細部や全体のおおらかさからみて建立の年代の下限としてよい。江戸初期には少なくなる真反り、反り増し、板かえる股の曲線など、伝統の本格的技術を忠実に駆使して建てられている建物である。社蔵の由緒書によると、延宝8年(1680)に本殿以下の諸殿とともに修理をうけている。
昭和60年「石川県の文化財」より
重要文化財 昭和57年6月11日指定
摂社白山神社本殿は、気多神社本殿と同年の棟札があり、同時に同じ大工によって造られている。3間社流造り、檜皮葺で、本社本殿の右側に並んで建っているが、内陣の形式は本殿に準じており、本殿に合わせて規模意匠を整えていることがわかる。
昭和60年「石川県の文化財」より
重要文化財 昭和25年8月29日指定
気多神社の拝殿の奥には、中央の大型の本殿に並んで、その左脇に摂社若宮神社本殿、右脇に白山神社本殿があり、3棟の本殿が立ち並んでいる。若宮神社本殿は、事代主命を祀り、永禄12年(1569)に能登守護畠山義綱により再建されたもので、小屋束に墨書銘があり、石川県下で数少ない戦国時代の建築の1つである。 1間社流造り、檜皮葺で、全体に繊細な感じのする建築であるが、かえる股や手挟みの彫刻にはこの時代独特の若葉が見られ、妻の大瓶束の雲形模様がすぐれている。向拝の木鼻や頭貫木鼻もすぐれている。向拝は、大面取り角柱に連三斗、手挟で身舎は円柱に連三斗で桁を受けている。軒先は二軒繁たるきで、向拝だけを一軒にしているのは簡潔である。4周に高欄付の切目縁をめぐらし、亀腹(土壇の周囲を土台下から地盤面まで丸く仕上げたもの)の上に立つ。縁束は柱の間隔で立ち、中間を省略しているのも向拝の軒先と同じ感覚であろう。大きな本殿の脇に小さく建っている姿は、いかにも室町的な感じである。
昭和60年「石川県の文化財」より
国の天然記念物 昭和42年5月2日指定
気多神社の社叢は、神域「入らずの森」として神聖視され、神官も、年1回、社叢内の奥宮の神事を勤めるために目かくしをして通行するのみといわれる。照葉樹林(暖地性常緑広葉樹林)としては、ことに中心部において極めて良く原生相が維持されており、常緑樹の枯死倒壊と交替したエノキの下に、ヤブニッケイ・タブノキなどの陰樹が生長しつつあるという遷移相も典型的に認められる。中心部は、スダジイの極盛相を示しているが、周辺は次第にタブ林に移り、ヤブツバキ・ヒサカキ・ヤブニッケイを亜高木とし、下層の林床にカラタチバナ・オオバジャノヒゲ・ムラサキニガナ・オモト・ホクリクムヨウラン・ベニシダなどをもっている。つる植物にテイカカズラ・ムベ・フジ・キズタ・イタビカズラ・ツルマサキ、着生植物にマメヅタなど、暖地性のものが多くみられる。カスミザクラ・アワブキ・イヌシデの混生は実生とみられるが、スギ・サカキは、植栽でなければ2次的野生と認められる。
昭和60年「石川県の文化財」より